どーも、サンディです!
今日は学校のこと。夏休み前、授業が終わるのか不安になっている葛藤を書きました。計画性をもって授業を進めないとなんですけど…なかなかそう上手くいかない現場のお話です。

理想と現実の狭間で、胸が苦しくなる

子どもたちの学習を思えば思うほど、考えさせたいこと、話し合わせたいこと、伝えたいこと、経験させてあげたいことは尽きません。
しかし、すべての授業でやりたいように進めると、時間がいくらあっても足りません。

「このままだと、次の単元にしわ寄せがいってしまう」というリアルな焦りと、「もっと目の前の子どもたちとじっくり向き合いたい」という理想。
その狭間で、いつも胸を苦しくさせている。
それが、いまの教育現場にいる多くの先生方の本音ではないでしょうか。

膨大な指導内容やカリキュラム。
そして、それに追われる限られた時間との戦い。

「きっちり、こなさなければならない」
そうやって自分を追い込み、心も身体もすり減らしていく……。
そんな終わりの見えない苦しいパターンから、なかなか抜け出せないのが、いまの学校現場の大きな現状です。

「量を減らそう」という国の方針と、現場のジレンマ

最近では、中教審の答申で「指導要領の見直し」や「授業内容の削減」について、取り上げられています。
学校のこれまでの常識を見直そう、授業内容を絞って教師が準備に使える時間を確保しよう、という方向性が示されていること自体は、私も一人の教師として大賛成です。
国が「内容を減らす方向で動く」と言ってくれるのは、現場の負担軽減の面からも本当にありがたいことです。

私たち教師の多くは、ただ教科書の知識を広く浅く、綺麗に子どもたちに流し込むだけの指導をしたいわけではありません。
本当は、目の前の子どもたちが「これ、おもしろそう!」「どうしてこうなるんだろう?」と自ら問いを見つけ、課題解決にとことん向き合って、学びをさらに深く深く掘り下げていくような授業をしたいと、日々懸命に工夫を重ねています。
子どもたちの主体性を引き出そうと、授業の準備をし、問いの投げかけを工夫し、探究的な学びを作ろうと全力を尽くしています。

それなのに、現実問題として「教えなければならない量」があまりにも多すぎる
すべての単元をきっちり網羅してこなさなければならないという目に見えないプレッシャーと義務感が、教師が本来やりたいはずの「課題解決型の授業」の時間を物理的に奪ってしまっている。
ここに、現場を苦しめている本当のジレンマがあります。

大人が手放すべきこと、子どもに渡したい体験

私たちがこれからの時代を生きる子どもたちに渡したいのは、教科書に書かれた知識を1から10まで過不足なく暗記させることではありません。
それよりも、「自分で問いを見つけ、解決し学びを深く掘り下げていく体験そのもの」です。

大人が先回りして答えを教えたり、綺麗に舗装されたレールを敷いたりするのを一回だけグッとこらえてみる。
そして、学びの主導権を子どもにそっと手渡してみる。

「これ、どうやって調べたらいいと思う?」
「課題を解決するために、話し合おう」
「なんでそうなったんだろう。」

そうやって問いを投げかけ、子どもたちが自分で選択し、小さな問いを深め始めたとき、そこには大人が用意した模範解答よりもずっと豊かで、きらきらした学びの世界が広がります。

しかし、そうした探究的な授業を継続して行うためには、どうしても「時間的なゆとり」が必要です。
じっくり考えさせる授業は、効率よく知識を詰め込む授業に比べて、どうしても時間がかかります。
予定の進度から遅れることもあれば、大人の想定外の方向に話が広がることもあります。

現状のように、こなさなければならない量が限界まで詰まった状態では、先生方がどれだけ熱意を持って工夫しようとしても、そのゆとりを生み出すこと自体が構造的に難しくなってしまいます。

現場が本当に求めている、たった一つのこと

つまり、いまの教育現場を救うために必要なのは、枝葉の細かい修正ではなく、本質的な「量の削減」なのではないでしょうか。
国や社会に求めているのは、ただ一つ。

「現場の教師が、子どもたちとじっくり向き合って考えるための時間を、本当の意味で保障してほしい」ということです。

教える量を大胆に減らしてもらう。
そうして生まれた空白の時間を使って、子どもたちがじっくりと深く考える時間を増やしていく。
それこそが、教師の心のゆとりを生み出し、結果として子どもたちの質の高い学びへとつながる唯一の道だと信じています。

私たちは、子どもたちにたくさんの知識を機械的に詰め込むことよりも、学ぶ喜びそのものを手渡していきたい。
情報があふれる今の時代だからこそ、「学び方を学ぶ」経験が何よりの財産になるはずです。