考えるなら、とにかく書け。デジタル時代だからこそ手書きを手放してはいけない理由
どーも、サンディです!
「これ、どうやって整理したらいいんだろう……」
頭の中でアイデアや考えがぐるぐると渦巻いて、結局何も前に進まない。
そんな経験、ありませんか?
僕自身、日々の教員生活や発信活動の中で、思考がパンクしそうになることが何度もあります。
特に最近は、パソコンやタブレットを開いて、デジタル上でノートを取ったり、考えをまとめたりする場面が本当に増えました。
僕の周りでも、特に若い世代や後輩の先生たちから、
「ノートは全部デジタル派です」
「手書きは苦手なんですよね」
という声をよく聞きます。
確かに、パソコンで文字を打てば綺麗にまとまります。
検索もできる。コピーもできる。並べ替えもできる。共有もしやすい。
レイアウトも整っていて、一見するとものすごく仕事ができるように見えます。
でも、そんな姿を見ながら、ふと感じることがあるんです。
綺麗に整理されているけれど、本当に頭の中まで整理されているのだろうか。
今回は、便利なデジタルツールを使う時代だからこそ、僕が改めて大切にしたいと思っている「手書き」について書いてみたいと思います。
デジタルメモは、知らないうちに思考を整えすぎる
後輩と話しているとき、彼がカタカタとキーボードを叩きながらメモを取っていました。
その姿を見ながら、僕はふと思ったんです。
パソコンやデジタルのメモツールって、思っている以上に「型」があるな、と。
タイピングをすれば、基本的には左から右へ文章を書いていきます。
その下に次の文章を書く。
見出しをつける。
箇条書きにする。
もちろん、図や矢印を入れることもできます。
でも、紙と比べると、どうしても「入力する」という行為そのものに一定のルールがあります。
一方、紙はめちゃくちゃです。
突然、真ん中から書き始めてもいい。
大きな丸を書いてもいい。
端っこに言葉を足してもいい。
思いついた言葉同士を矢印で結んでもいい。
「やっぱり違う」と思ったら、ぐちゃぐちゃに線を引いて、その横にまた書けばいい。
手書きの価値は、綺麗な字を書くことでも、見栄えのいいノートを作ることでもありません。
思考の形に合わせて、表現の仕方を自由に変えられること。
ここにあると思っています。
そもそも、僕たちの思考って、最初から文章になっているわけじゃないですよね。
なんとなく浮かんだ違和感。
突然出てきたアイデア。
まだ言葉にならない感覚。
「あれとこれ、もしかして繋がっているんじゃないか」という直感。
思考は本来、もっとぐちゃぐちゃしています。
だからこそ、考え始めの段階では、そのぐちゃぐちゃさを無理に整えないことが大事なんじゃないかと思うんです。
頭の中だけで考え続けるのは、かなり苦しい
もう一つ、僕が「とにかく書いた方がいい」と感じる理由があります。
それは、頭の中だけで考え続けるのには限界があるからです。
僕はよく、頭の中を「小さなテーブル」にたとえています。
そこにはいくつかのお皿しか置けません。
「授業のねらいはこれで……」
「でも子どもの実態を考えると……」
「この資料も使えそうだな」
「いや、その前に問いを変えた方がいいか」
なんて考えているうちに、最初に浮かんだ大事なアイデアが、いつの間にかテーブルから落ちてしまう。
僕自身、何度もあります。
「あれ?さっきめちゃくちゃいいこと思いついたのに、なんだっけ?」
人間が一度に頭の中で扱える情報には限りがあります。
だからこそ、頭の中に全部置いておこうとせず、外に出してしまえばいい。
ノートに書く。
付箋に書く。
ホワイトボードに書く。
思いついたことを、とにかく自分の外側へ出す。
すると、頭の中のテーブルに少し余白が生まれます。
その余白ができて初めて、
「じゃあ、この二つはどう繋がるんだろう」
「一番大事なのは何だろう」
「そもそも、この問い自体が違うんじゃないか」
と、一段深く考えられるようになる。
つまり、書くことは単なる「記録」ではありません。
考えるために、頭の容量を空ける行為でもある。
僕はそう感じています。
手書きが優れているのではない。「未完成でいられる場所」が必要なんだ
ここは、かなり大事なところです。
僕は「デジタルはダメ、手書きこそ正義」と言いたいわけではありません。
むしろ、デジタルツールはめちゃくちゃ使っています。
文章を書く。
資料を作る。
共有する。
保存する。
検索する。
過去のデータを引っ張り出す。
こうしたことは、圧倒的にデジタルの方が便利です。
生成AIだって同じです。
自分の考えを整理したり、別の視点をもらったり、文章を磨いたりするうえでは、とても強力な道具です。
でも、だからこそ意識したいことがあります。
「考えること」と「整えること」は違う。
ここを混同しないことです。
最初からパソコンに向かって「綺麗にまとめよう」とすると、僕の場合、自然と清書モードに入ってしまいます。
タイトルをどうしよう。
見出しをどうしよう。
文章の順番はどうしよう。
読みやすくするにはどうしよう。
もちろん、それも大切です。
でも、その段階に入るのが早すぎると、まだ形になっていないアイデアを切り捨ててしまうことがあります。
「これは文章にならないからいらない」
「これは綺麗に分類できないから外そう」
そうやって、まだ育っていない思考の芽を、自分で摘んでしまう。
だから必要なのは、手書きそのものというより、
思考が未完成のままで存在できる場所
なのかもしれません。
紙は、その場所としてものすごく優秀です。
間違えていい。
汚くていい。
話が飛んでもいい。
途中で矛盾してもいい。
誰にも見せなくていい。
完成させなくていい。
だからこそ、思考を思考のまま置いておけるんです。
「見せるための整理」と「深めるための整理」を分ける
僕は最近、整理には二種類あると考えています。
一つは、見せるための整理。
もう一つは、深めるための整理。
誰かに説明する資料を作る。
職員に共有する。
保護者に伝える。
SNSやnoteで発信する。
こういうときは、見せるための整理が必要です。
順番を整える。
言葉を磨く。
余計なものを削る。
見出しをつける。
ここではデジタルが圧倒的に強い。
でも、その前には「深めるための整理」があります。
思いついたことを並べる。
違和感を書き出す。
矢印で繋ぐ。
似ているものを囲む。
「なぜ?」を横に書く。
一度書いたものを消して、別の考えを書く。
この段階では、綺麗さなんてどうでもいい。
むしろ、綺麗にしようとしない方がいいくらいです。
デジタルは、完成した思考を整える場所。
紙は、まだ完成していない思考を揉む場所。
僕にとっては、この使い分けがかなりしっくりきています。
授業を考えるときも、最初はだいたいぐちゃぐちゃ
これは、教員という仕事でも同じです。
例えば、授業を考えるとき。
最初から指導案のフォーマットを開いて考え始めると、どうしても
「本時の目標は……」
「評価規準は……」
「展開は導入・展開・まとめで……」
という枠から考え始めてしまいます。
でも、本当に面白い授業を考えようとすると、その前にもっとぐちゃぐちゃした時間が必要なんです。
「子どもはここで何を疑問に思うだろう?」
「そもそも、この教材の面白さって何だ?」
「この資料を見たら、何を言い出すかな」
「自分だったら、どこで立ち止まる?」
「この単元で、本当に考えさせたいことって何なんだ?」
こういうものを、ノートの見開きいっぱいに書いていく。
矢印を引く。
丸で囲む。
途中で別のページに飛ぶ。
思いついたことを横に書く。
そして何度も眺めていると、
「あ、これかもしれない」
という一本の線が見えてくる。
僕にとっては、この瞬間が「考える」ということなんだと思います。
最初から答えを出そうとするのではなく、
ぐちゃぐちゃなものを机の上に全部出して、何度も触りながら形を見つけていく。
授業づくりだけではありません。
文章を書くときも、仕事の課題を整理するときも、自分の人生について考えるときも、基本的には同じです。
生成AIの時代だからこそ、自分で考えた跡を残したい
そして今、生成AIのような便利なツールが一気に身近になりました。
分からないことを聞けば教えてくれる。
文章を書いてくれる。
考えを整理してくれる。
アイデアも出してくれる。
本当に便利です。
僕自身もかなり使っています。
でも、便利になればなるほど、一つだけ怖いことがあります。
それは、「考えたつもり」になること。
整った文章が出てくる。
もっともらしい答えが返ってくる。
すると、それだけで自分の思考まで深まったような感覚になります。
でも、本当にそうでしょうか。
AIが出した答えを見て、
「なるほど」
で終わるのと、
自分でぐちゃぐちゃ考えたあとに、
「自分はこう考えたけれど、他にどんな見方がある?」
とAIを使うのとでは、まったく違う。
僕は、AIがある時代だからこそ、最初の「自分はどう考えるのか」という部分を手放したくありません。
紙に書くことは、そのための一つの方法だと思っています。
自分が迷った跡。
考え直した跡。
線を引いた跡。
「違う」と書いた跡。
そこには、完成された文章には残らない、自分の思考の足跡があります。
その泥臭さこそ、これからますます価値を持つんじゃないでしょうか。
スマートにまとめるのは、あとでいい
僕たちは、あまりにも「綺麗にまとめること」に慣れすぎているのかもしれません。
整ったスライド。
綺麗な文章。
読みやすいノート。
分かりやすい資料。
もちろん、どれも大事です。
でも、完成されたものだけを求めていると、その前にあるはずの「ぐちゃぐちゃ考える時間」が消えていきます。
だから僕は、考えに行き詰まったときほど、パソコンを閉じます。
ノートを開きます。
そして、とにかく書きます。
意味が通らなくてもいい。
字が汚くてもいい。
文章になっていなくてもいい。
丸でもいい。
矢印でもいい。
「なんか違う」だけでもいい。
書いているうちに、自分でも気づいていなかった考えが、少しずつ見えてくることがあります。
手書きが優れているからではありません。
完成させなくていい場所が、人間には必要だからです。
スマートにまとめるのは、あとでいい。
まずは、自分の手を動かしてみる。
ぐちゃぐちゃなまま、紙の上に全部出してみる。
そして、自分の思考と少し長く付き合ってみる。
便利な時代だからこそ、そんな泥臭い時間を大切にしていきたいと思っています。
考えるなら、とにかく書け。
そこから、本当の思考が始まるのかもしれません。

