どーも、サンディです!

現役の小学校教員として高学年を担任しながら、研究主任や安全主任を務め、家では二児の父としてドタバタな毎日を送っています。

日々、教室で子どもたちと向き合っている中で、ずっと胸の奥に引っかかっている強烈なもどかしさがあります。

「あぁ、もっとここを深めたいのに……」

授業中、子どもたちの発言からハッとするような問いが生まれたり、予想もしなかった面白い「脱線」が起きたりすることがあります。

本当なら、その脱線こそを面白がって、子どもたちの興味の赴くままに学びを深めていきたい。それこそが生きた学びであり、授業の一番面白い瞬間のはずです。

でも、現実は容赦なく時計の針が進みます。

「時間の都合上、今日はここまで!」

パタンと教科書を閉じて、次の学習へ向かわざるを得ない。

パッパッパッと予定を消化していく日々。

子どもたちの「もっと知りたい」「なんでだろう」という熱を、自分自身の手で冷ましているような感覚があります。

そして最近、こんなことを思うようになりました。

僕たちが「脱線」と呼んでいるものこそ、本当は子どもにとっての「本線」なのではないか。

「探究をもっと」の一方で、学校に求められるものも増えていく

今、次の学習指導要領に向けた中央教育審議会の議論が進められています。

その中では、「質の高い探究的な学び」を実現していくことが大きなテーマの一つになっています。

これは、僕自身とても共感しています。

子どもたちが自分で問いを持つ。
調べる。
人と話す。
考える。
試してみる。
失敗したら、また考える。

そうやって、自分自身で学びを進めていく。

そんな時間をもっと学校の中につくりたい。

僕も心からそう思っています。

一方で、同じ議論の中では情報教育の強化も大きく打ち出されています。

小学校では「総合的な学習の時間」に「情報の領域」を加える方向で議論が進められています。

生成AI、プログラミング、情報モラル、情報活用能力。

これからの社会を生きる子どもたちにとって、どれも大切なものです。

だから僕は、「そんなものは学校でやらなくていい」と言いたいわけではありません。

むしろ、必要だと思っています。

では、その時間をどこから生み出すのか。

ここについても、中教審ではちゃんと議論されています。

現在以上に年間の標準総授業時数を増やさないことを前提に、情報教育のための時間を確保するため、既存の教科などの標準授業時数を一定の割合で減らす方向が示されています。

さらに、各学校が教育課程をより柔軟に編成できるよう、教科の標準授業時数を調整して別の学びなどに充てられる「調整授業時数制度」についても検討が進められています。

つまり、

「新しいことを増やすだけで、時間については現場で何とかしてください」

という単純な話ではありません。

そこは、僕自身もきちんと理解しておきたいところです。

それでもなお、現場に立つ一人の教師として、どうしても引っかかるものがあります。

時数を動かせば、本当に「余白」は生まれるのか

例えば、ある教科の授業時数を減らし、その時間を情報教育や探究に使えるようになったとします。

制度上は、確かに新しい時間が生まれます。

これは大きな変化だと思います。

ただ、そこで僕が気になるのは、

「授業時数を減らすこと」と「教師や子どもに余白が生まれること」は、本当に同じなのだろうか。

ということです。

国語の授業時数を減らしたとしても、国語で身につけさせたい力や、扱うべき学習内容がほとんど変わらなければ、結局は短くなった時間の中で同じように学習を進めなければなりません。

算数も、理科も、社会も同じです。

もちろん現在の議論では、学習内容そのものについても、必要に応じて精選し、構造化していく方向が示されています。

だから、「何も減らさず、ただ新しいものだけを足している」と批判するのは正しくありません。

でも僕は、ここにこそ本気で踏み込んでほしいと思っています。

時数だけではなく、本当に学ぶ内容まで精選できるのか。

「これは大切」
「あれも必要」
「これも将来使う」

そうやって積み上がってきたものを、

「これは手放そう」

と言えるのか。

そこまでやらなければ、結局、授業時数を減らした分だけ一つひとつの授業が忙しくなり、空いた時間に新しい学びを入れていくことになりかねません。

時間の付け替えだけで終われば、教師も子どもも、やっぱりパンパンのままです。

僕が感じている「ビルド&ビルド」の苦しさは、ここにあります。

「どれも大切」が、学校を苦しくしていく

国語も大切。
算数も大切。
理科も社会も大切。
外国語も大切。
道徳も大切。
体育も図工も音楽も大切。

もちろん、全部大切です。

そこに、

探究も大切。
情報活用能力も大切。
プログラミングも大切。
生成AIとの付き合い方も大切。
情報モラルも大切。

と続いていく。

一つひとつを切り取れば、どれも「確かに必要だよね」と思います。

でも、学校の時間には限界があります。

教師にも限界があります。

そして何より、子どもたちが一日に使えるエネルギーにも限界があります。

だから、

「大切なものを全部やる」

という発想そのものを、一度問い直す必要があるのではないでしょうか。

僕たちはこれまで、教育をよくしようとするとき、

「何を新しく始めるか」

を考えすぎてきたように思います。

新しい教育課題が出てくれば、新しいものを足す。

社会が変われば、また足す。

問題が起きれば、その対策も足す。

まさに、ビルド&ビルド。

でも建物だって、永遠に上へ上へと積み重ねることはできません。

どこかで整理しなければ、いつか耐えられなくなります。

学校も同じなのではないでしょうか。

「ゆとり教育の失敗」という言葉に感じる違和感

こうした話をすると、「ゆとり教育」が頭に浮かびます。

「ゆとり教育は失敗だった」
「学力が下がったから、学習内容を戻した」

そんな言葉を、これまで何度も耳にしてきました。

もちろん、当時の教育政策に課題がなかったと言いたいわけではありません。

ただ僕は、「ゆとり教育は失敗だった」という一言で片づけられてしまうことに、ずっと違和感があります。

その評価の中で、テストの結果など、目に見える数値ばかりが強調されてはいなかったでしょうか。

テストの点数を取るために、ドリルや基礎問題を繰り返す。

それによって身につく力もあります。

基礎学力が大切なのも間違いありません。

でも、テストの点数が上がることだけを「教育の成功」としてしまったら、何か大切なものを見落としてしまうと思うのです。

テストの点数=生きる力、ではありません。

自分で疑問を持つこと。
自分の頭で考えること。
人と対話すること。
失敗しながら試行錯誤すること。
夢中になって何かを追いかけること。

こうした力もまた、これからの社会を生きていくために欠かせないものです。

そして、その力を育てるには、どうしても「余白」が必要だと思っています。

子どもの「脱線」を許せる余白があるか

授業中、子どもがふと口にした疑問。

「先生、これってどういうこと?」
「だったら、こっちはどうなるの?」
「もっと調べてみたい!」

そんな声が出たとき、

「あ、それ面白いね。ちょっとみんなで考えてみようか」

と言える時間があるか。

本当は、この瞬間こそ大切にしたい。

ところが、頭の中には年間指導計画が浮かびます。

「今日はここまで進みたい」
「この単元はあと○時間」
「来週には次に入らないと間に合わない」

すると、つい、

「それはまた今度ね」

と言ってしまう。

そして、その「今度」が来ないこともあります。

これは僕自身、何度も経験してきました。

子どもの問いから学びが動き始めているのに、教師の予定によって止めてしまう。

なんともったいないことをしているんだろうと思います。

探究とは、本来こういうところから始まるのではないでしょうか。

教師があらかじめ用意した「探究っぽい課題」を子どもに与えることだけが、探究ではありません。

子ども自身が、

「なんで?」
「もっと知りたい」
「やってみたい」

と思った瞬間。

その小さな火を消さずに、少し一緒に立ち止まる。

そんな時間こそ、本当は守らなければいけないのだと思います。

余白がなくなると、大人がコントロールし始める

時間がないと、人は焦ります。

これは教師も同じです。

「ここまで終わらせなきゃ」
「この答えに気づいてほしい」
「あと10分でまとめないと」

余裕がなくなればなるほど、僕たちは子どもを自分の想定した場所へ早く連れていこうとします。

「次はこれを考えて」
「ここに注目して」
「こういうことだよね」

教師が先回りして、道筋をどんどん整えてしまう。

もちろん、教師が教えることや方向を示すことは必要です。

何でも子ども任せにすればいいとは思いません。

でも、時間がないことを理由に大人がすべてをコントロールし始めたら、子どもが自分で考える余地はどんどん小さくなっていきます。

探究を大切にしたいのに、探究する時間がない。

主体性を育てたいのに、時間がないから大人が指示する。

この矛盾を、僕は学校現場で何度も感じています。

必要なのは「何を足すか」ではなく、「何を手放すか」

だから僕は、今回の学習指導要領改訂の議論で「余白の創出」という言葉が出てきていること自体には、大きな期待を持っています。

学校の時間には限界がある。

だから、教育課程を柔軟にする。

学習内容を精選する。

そうした方向へ進もうとしていることは、とても大切なことだと思います。

だからこそ、ここは中途半端に終わらせてほしくありません。

本当に余白をつくるのであれば、「何を足すか」だけでなく、「何を手放すか」まで踏み込んでほしい。

「これも大切だから残そう」
「あれも必要だから残そう」

と全部抱えたまま、時数だけをやりくりするのではなく、

「これからの子どもたちに本当に必要な学びは何なのか」

を考え、そのためなら何かを減らす。

何かをやめる。

何かを手放す。

そこまでやって初めて、本当の意味での余白が生まれるのではないでしょうか。

そしてこれは、国や中教審だけの話でもありません。

僕たち教師自身も同じです。

「計画通り進めなければ」
「全部きれいに教えなければ」
「教師が授業をコントロールしなければ」

そんな思いを、少し手放してみる。

すると、目の前の子どもの問いに立ち止まれる瞬間が、ほんの少し増えるかもしれません。

「もっと深めたい」を、終わらせないために

教師が教材とじっくり向き合える時間。
地域に出て教材を探せる時間。
子どもの問いに付き合える時間。
予定外のことを面白がれる時間。
うまくいかなかった授業を振り返り、もう一度考えられる時間。

一見すると、どれも「効率が悪い時間」に見えるかもしれません。

でも僕は、こうした時間こそ教育からなくしてはいけないと思っています。

すべて予定通りに進む授業よりも、

「え、なんで?」
「ちょっと待って、それ面白い」
「調べてみようよ」

と予定が崩れていく授業の方が、子どもたちの学びが大きく動くことがあります。

もしかすると、

僕たち大人にとっての「脱線」が、子どもたちにとっての「本線」なのかもしれません。

現場の時間のなさや、教育を取り巻く構造的な課題はあまりにも大きく、僕一人の力で簡単に変えられるものではありません。

それでも、教室の中でできることはあります。

子どもから生まれた問いを、すぐに切り捨てない。
少しだけ予定をずらしてみる。
「今日はここまで進まなくてもいい」と考えてみる。
子どもが考えている沈黙を、大人の言葉ですぐに埋めない。

小さなことかもしれません。

でも、そうやって少しずつ余白を守っていくことが、子どもたちの学びを守ることにつながるのだと思います。

子どもたちの、

「もっと知りたい!」
「もっと深めたい!」

というキラキラした目を、時間の都合だけで閉じたくない。

だから僕はこれからも、現場で感じた違和感に蓋をせず、問い続けていきたいと思います。

これからの教育に、何を足していくのか。

それと同じくらい、

いや、それ以上に、

「何を手放せば、本当に大切な学びのための余白をつくれるのか」

を考えていきたい。

今の教育現場に必要なのは、さらなる「ビルド」ではなく、

子どもも教師も、立ち止まり、考え、夢中になれる「余白」なのではないでしょうか。