『引き算の子育て』を読んで確信した。子どもは「育てる」のではなく、「信じる」もの。
どーも、サンディです!
現役の小学校教員として、高学年の担任や研究主任を務めながら、家では二児の父親として日々子どもたちと向き合っています。
突然ですが、みなさんは日々の教育や子育ての中で、こんな焦りやプレッシャーを感じていませんか?
「もっと勉強の習慣をつけさせなきゃ」
「手遅れにならないように、読み書き計算の基礎を身につけさせなくちゃ」
「もっと綺麗に、もっと上手にできるように教えてあげなきゃ」
教員として現場に立っていても、父親としてわが子と接していても、現代の大人たちは「何かを足さなければいけない」という強い焦りに追われているように感じます。
SNSを開けば、「〇歳までにやるべきこと」「今のうちに身につけさせたい力」といった情報があふれている。
何もしないことが、まるで悪いことであるかのように感じてしまうことさえあります。
でも、本当にそうでしょうか。
今回、宮本哲也先生、井本陽久先生、おおたとしまさ先生の共著『子どもが自ら考えだす 引き算の子育て』を読み、アドラー心理学の思想とも深く重なる、ある確信を得ました。
親や教師は、子どもを必要以上に「いじらない」ほうがいい。子どもは、最初から自分で育っていく力を持っている。
ということです。
そして、その引き算を支えるものこそ、アドラー心理学でいう「信頼」なのだと思います。
私たちがよかれと思って重ねている「手出し」や「コントロール」を削ぎ落としたとき、子どもに何が起きるのか。
現場の実感と、父親としての経験を交えながら考えてみたいと思います。
勉強も作品も、大人の「足し算」が子どもの思考を奪う
学校現場でも家庭でも、大人が焦りやすいのが「勉強の習慣づけ」や「基礎的な学び」です。
もちろん、読み書き計算の基礎は大切です。
ですが、単調なドリルや反復練習そのものが、すべての子どもにとって面白いとは限りません。
そこに大人が、
「勉強しなさい」
「もっとやりなさい」
「こうしたほうがいい」
と強く介入し続ければ、いつの間にか子どもは「自分で学ぶ」のではなく、「言われたからやる」状態になってしまうことがあります。
学びにとって大切なのは、知識や技能だけではありません。
自分で考えること。
何かに夢中になり、試して、失敗して、また考えること。
その時間こそ、子どもの学びの土台になるのだと思います。
これは、勉強に限った話ではありません。
わが家での実体験があります。
うちの子どもは工作が大好きで、よく折り紙とセロハンテープを使って作品を作っています。
大人から見たら、テープがベタベタに貼られた、正直ちょっと「ぐちゃぐちゃな物体」です。
以前の私は、よかれと思ってこう言っていました。
「ここをハサミでこう切って、こうやってテープを貼ると、もっと綺麗に作れるよ」
今思えば、完全な手出しです。
指導であり、子どもへの「いじり」でした。
でも、『引き算の子育て』を読んで、ハッとしました。
そもそも、綺麗に作らせる必要なんて、どこにもなかったのです。
子どもは「綺麗な作品」を作るために工作していたわけではありません。
ぐちゃぐちゃに見える制作の中で、
「ここにつけてみよう」
「やっぱり違う」
「じゃあ、こうしよう」
と、自分なりに試行錯誤していた。
そこでは、確かに思考が動いていました。
大人が完成形を教えてしまえば、その思考の余地を奪ってしまうことがあります。
大人は、「教える側」という立場から少し降りてもいいのかもしれません。
綺麗な作り方を教えるのではなく、
「それ何つくってるの?」
「そこ、どうしたの?」
と面白がる。
子どもなりに作った作品をしっかり見る。
大人も隣で一緒に作って楽しむ。
それだけで十分なのだと思います。
大人のモノサシで「くだらない」と決めつけるものは、子どもの世界にはひとつもありません。
家はダラダラしていい場所
もう一つ、学校現場でも保護者の方からよく聞くのが、家庭での過ごし方についての悩みです。
「家でダラダラしてばかりで怒ってしまう」
「家でもしっかりさせないと、外で困るんじゃないか」
そう考えて、家でも子どもを整えよう、動かそう、変えようとしてしまう。
でも私は、学校で多くの子どもたちを見てきて、むしろ逆ではないかと感じることがあります。
家でいつも気を張り、失敗できず、だらけることも許されない子は、どこかでエネルギーの反動が出ることがあります。
一方で、家が安心できる場所であり、思いきりダラダラできる子は、外で自分の力を発揮できることがあります。
もちろん、すべての子どもがそうなるわけではありません。
ただ、家まで「頑張る場所」にしてしまう必要はないと思うのです。
家は、休む場所でもいい。
ダラダラしてもいい。
何もしない時間があってもいい。
何があっても受け入れてもらえる場所があるからこそ、外で挑戦できる。
親が手出しを引き算し、家庭を「安心して力を抜ける場所」として保障すること。
それも、立派な子育てなのだと思います。
引き算を支えるのは「信頼」
そして、この「引き算」を支えているものは何か。
私は、アドラー心理学でいう「信頼」なのだと思います。
手を出さない。
口を出しすぎない。
子どもの課題に踏み込みすぎない。
言葉にすると簡単ですが、実際にやってみると、とても難しい。
なぜなら、大人の心のどこかに、
「このままで大丈夫だろうか」
「私が教えなければ、できないのではないか」
「今やらせないと、あとで困るのではないか」
という不安があるからです。
だから、つい口を出す。
つい先回りする。
つい正解を教えてしまう。
でも、その手を止めるために必要なのが、
「この子には、自分で考え、自分で育っていく力がある」
と信じることなのだと思います。
引き算の子育てとは、何もしないことではありません。
放任でもありません。
子どもの力を信頼して、必要以上に奪わないことです。
手を出すよりも、見守るほうが難しい。
教えるよりも、待つほうが難しい。
変えようとするよりも、そのままを信じるほうが難しい。
それでも、
「この子なら大丈夫」
と信じて待つ。
そこに、子どもを一人の人間として尊重する姿勢があるのではないでしょうか。
大人が手放すべきは「コントロール」という自我
アドラー心理学では、子どもを一人の人間として尊重する「横の関係」や、親の課題と子どもの課題を分ける「課題の分離」を大切にします。
『引き算の子育て』の根底にも、それに近い精神を感じました。
子どもをコントロールしようとしない。
子どもを自分の理想通りに変えようとしない。
親や教師がやるべきなのは、子どもに「新しい能力を買い足してあげること」ではありません。
むしろ、
大人の焦り。
過干渉。
見栄。
「こうあるべき」という固定観念。
そういった余計なものを引き算することなのだと思います。
子どもは、大人が一から作り上げる存在ではありません。
自分で育ち、自分で学び、自分で世界を広げていく存在です。
親が教えることばかり考えるのをやめて、子どもが興味をもっているものを一緒に面白がる。
心地よい時間を共有する。
親自身が、子どもとの活動を楽しむ。
それだけで、子育てはずいぶん変わる気がします。
子どもは「変わる」のではない。「戻る」のだ
「引き算」の関わりを続けていると、子どもが見違えるように変わったように感じる瞬間があります。
でも、本当は違うのかもしれません。
子どもが新しく「変わった」のではない。
大人の過剰な介入。
「こうあるべき」という押し付け。
コントロールしようとする圧力。
そうしたものが少しずつ削ぎ落とされたことで、子どもが本来持っていた姿に「戻った」だけなのではないでしょうか。
もともと持っていた好奇心。
自分で考える力。
やってみたいという意欲。
失敗しても、もう一度試そうとする力。
子どもは、最初からたくさんのものを持っています。
だから、何かを教え込もうとしすぎなくていい。
変えようとしなくていい。
大人の都合や焦りを引き算し、目の前の子どもを一人の人間として対等に見る。
その子のありのままの姿を面白がりながら、ただ一緒に気持ちよく過ごす。
そして、
「この子は、自分で育っていける」
と信じる。
子育てに必要なのは、「何をしてあげるか」だけではありません。
どこまで子どもを信じられるか。
そこが、とても大切なのだと思います。
子育てに、教育に、余計な「足し算」はいりません。
必要なのは、子どもを信じて引き算する勇気。
そして、手を出したくなる自分自身の不安と向き合うこと。
子どもを変えるのではなく、子どもが本来の姿に戻っていけるように、大人が少しだけ退く。
そこから、本当の意味での「信頼」が始まるのだと思います。

